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清水の舞台から飛び降りた人は本当にいる?

江戸時代百四十八年分の記録で、なんと二百三十四人。
そのすべてを記録した『成就院日記』があった。


 「ええ、何のコレ、清水の舞台から飛んだと思うて十二文!」──とカボチャを値切るのは江戸の作家、式亭三馬が書いた『浮世風呂』の一場面。「清水の舞台」のことわざは江戸時代後期、すでに全国に通用していたようだ。
 「清水の舞台から飛び降りるつもり」になれば、なんでもできる。この言葉、ギリギリの断崖絶壁に追いつめられた苦しい心境のようにも思えるが、しかしここで「飛び降りるつもり」になれば、パッと新境地が開けるようでもあって、その気にさえなれば救われる。これが「高層○○ビルから」などといえば、どう飛んでも救われようがないが、ここは大慈悲の清水観音霊場である。清水の観音さんが見守ってくれる。
 そのせいかどうか、このことわざ、いまもちっとも古びない。それどころか現代にアレンジされて「キヨブタ」といえば「清水の舞台から」を意味する若者ことばの符号となっているとか。
 清水の舞台は高さ約十二メートル。音羽山の深い急崖に「懸造り」という日本独特の柱組みで建てられた国宝。ここから飛び降りたら、とても命が助かるとは思えない。過去に幾度か火災に遭って、いまの舞台は寛永十年(一六三三)再建である。
 さて本論。はたして本当に清水の舞台から飛び降りた、勇気ある人がいるのだろうか。実際に飛び降りた人がいるから、この言葉が生まれたのだろうか──との疑問を抱え、清水寺学芸員の横山正幸さんのもとへ。ここで想像を超える意外な事実に出会ったのである。
 横山さんは、長年の懸案だった「清水の舞台から飛び降りた」全記録を近年ついにまとめ上げ、自費出版された。それは清水寺成就院『御日記』による。塔頭・成就院は清水寺山内の全般的管理役にあるため、山内で事故があればまず通報を受け、対応にあたり、町奉行所への届け出を担当。それらを日報として、現在も日々記録し続けているのが成就院『御日記』で、そこに事故処理の全記録が記されていたのだ。ただし残念ながら、残存する記録は元禄七年(一六九四)以降、百七十一年間のうちの百四十八年分のものである。
 それによると、元禄七年から明治五年に京都府が「舞台飛下り」禁止令を出すまでの間で、総件数は引き留め未遂を含め二百三十五件で二百三十四人(洛中の同一の娘が二回実行)。これらは単なる自殺志願ではなく、命をかけて観音さまに祈願し、願いが叶えられれば存命するという清水観音信仰によるものだった、というのである。
 飛び降りは、『御日記』の記録が始まる元禄年間(一六八八〜一七〇三)の件数がとくに多く、年間七件、六件と多発した年がある。当時は「飛び降り」ではなく「飛び落ち」という言葉を使っており「近年、本堂舞台より飛び落ち申すもの多くこれ有るにつき、門前中、毎度迷惑つかまつり候ゆえ…」などと見える。
 やがて江戸中・後期には歌舞伎や浄瑠璃、小説の題材となり、若い女性が傘を開いて飛ぶ芝居のシーンが浮世絵に描かれ、「雨の日は皆とぶような清水寺」などと川柳・狂歌にも詠まれた。もはや「清水の舞台飛び」は、当時の習俗になっていた。
 横山さんの分析によると、記録総計の男女比は男性が女性の二・五倍、年齢別に見ると二十代までの若者が年齢判明者の七十三・五パーセントで、四十代を過ぎると極端に少ない。そして気になる「飛び降り」生存率だが、なんと八十五・四パーセントは命が助かっている。生存率の高さには目を見張る。助かった人は「心願」「立願」によって飛び落ちたと自己告白するのが常であったそうだが、やはり観音さまが見守ってくださったのか。


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