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梶井基次郎の『檸檬』は“寺町通小説”だった? 

八百卯から丸善へ。
大正時代の京都を歩いてみる。


 いまからひと世代前のこと。わたしは学生生活を寺町通にある寮から始めた。めぐりめぐっていま、寺町通をしょっちゅう行き来する場所で仕事をしている。
 学生寮に入ったとき、同室になった先輩は、ついきのうまで田舎の高校生だったわたしにひと通りの生活情報を教えてくれた。寺町通を丸太町から下がっていけば、進々堂というパン屋さんがあって、そこのレーズン入りフランスパンがおいしいこと。
寮のお風呂が休みの日には、進々堂の手前にある錦湯を利用すること。いちばん近い書店は三月書房で、「へんこな本屋さんだけど、吉本隆明もときどき来るのよ」とその先輩はいった。
 「そうそう、三月(書房)の南側に果物屋さんがあるの。それが梶井基次郎の小説『檸檬』に出てくるお店」。
 こうしてわたしは『檸檬』のお店のことを知った。当時から店先には、梶井基次郎の小説のことにふれた説明書きがショーウィンドウの向こうに置かれていた。そしてもちろん、色鮮かな大粒のレモンが途切れることはなかった。
 久しぶりに『檸檬』を読み直そうと、むかし買ったはずの文庫本を探すのだが見当たらない。あきらめて文庫本を買ってきて、読んでいるうちに肝心なことを見落としていたことに気がついた。
 小説『檸檬』は、大正十四年(一九二五)に発表された梶井基次郎の処女短編。文庫本にしてわずか八ページだ。
 「その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった」。八百卯で果実の美しさに魅惑され、一個のレモンを買う。そして洋書屋丸善に入り、画集の棚の前に立つ。そこにレモンを置き去りにして、そのレモンが大爆発するという破壊的な想像にふけりながら、主人公はさらに寺町を下がっていく、というストーリー。
 わたしはずっと、丸善の場所を現在の河原町通と思い込んでいた。しかし、はたしてそうだろうか。いまでこそ河原町通が京都を代表する繁華街となっているが、その歴史はそれほど古いものではない。大正時代すでに、丸善は河原町通にあったのだろうか。
 丸善本店にたずねてみた。丸善は明治二年(一八六九)に書籍と文具、洋品雑貨、化粧品、石けんなどの輸入品を扱う「丸屋善八店」として横浜に誕生した。続いて東京日本橋に「丸屋善七店」、大阪に「丸屋善蔵店」、そして京都には明治五年、「丸屋善吉店」として二条通柳馬場に開店。明治七年に寺町通姉小路に移ったのち、閉店した。
 次に丸善京都支店として開店したのは明治四十年(一九〇七)で、このときの場所は三条通麸屋町。これが梶井基次郎が通ったころの丸善である。
 やはり、河原町通ではなかった。三条麸屋町当時の丸善の写真を見ると、屋根に揚げられた白い大型看板には「Z.P.MARUYA&CO.,LTD」の英文。建物は当時の京町家だが、ショーウィンドウには本やステイショナリーが並んでいる。モダンな洋館が建ち並ぶ三条通にふさわしい店であったろう。

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