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哲学の道の石畳は懐かしい市電のリサイクル

京都は路面電車が似合うまち。
市電の思い出は、いまもあちこちに生きている。

 京都から市電が消えた日は、昭和五十三年(一九七八)九月三十日。早いもので、もう四半世紀がたとうとしている。いま二十代の若者たちは、京都に市電が走っていたことをほとんど知らないというわけだ。
 皮肉なことに、市電全廃からわずか四半世紀ほどで、もう市電復活待望論が聞こえてくる。いわく
 「ひとにも、環境にもやさしい、都市型公共交通は路面電車」
 「高齢社会には、地下鉄よりも路面電車がふさわしい」などなど。
 地方都市では路面電車が健在な都市もまだまだ多い。広島では、京都の市電がまったくそのままのスタイルで、むしろ京都市電であったことを誇らしげに、何番というプレートもそのままに走っている。思いがけず出会った親戚のおじさんみたいで、無性に懐かしかった。そんなことなら、廃止しなければよかったのに、と思っても、こういうのをあとの祭りというのだろう。
 わたしが大学生になって京都へやってきて、初めて市電に乗ったのは昭和四十六年。忘れもしない、市電は二十五円だった。そして、市電が消えた年の、最後の料金は百円。七年間でちょうど四倍に跳ね上がった。それだけではない。全盛時代二十系統あった市電が、毎年のように次から次へと姿を消した七年間だった。
 思えばこの時代は、京都の路面電車八十三年の歴史でいえば、最終章のさらにあとがきのようなページである。もっと古くにさかのぼれば、年配の方々なら、狭軌のレールを走った北野線、堀川中立売で堀川の橋梁をゴトゴトと渡った光景を懐かしく思い出されるのだろう。
 京都における日本最初の路面電車のことは、いまではテレビのクイズになるほどで、その正解の珍妙さには、思わず笑ってしまった。
 そのクイズは、昔の電車には「電車がきまっせ、あぶのおっせ」と、電車の前を走って通行人に危険を知らせる「先走り」という少年がいた、が正解。初期の電車は時速約十キロと遅いので、直前を横切る人も多く、かえって危険なために、昼は旗、夜は提灯をもって少年が先を走ったのだとか。
 市電はとうの昔になくなったが、市内のあちこちには、市電が通った跡をとどめる通りがある。四条大宮から、京都ではめずらしい斜め四十五度にのびる後院通は、明治四十五年(一九一二)の市電開業時にできた壬生車庫へ通じる道。
 西洞院通、下立売通の烏丸─堀川、塩小路─七条の東洞院通や高倉通、寺町通の二条─今出川などが他の街なかの通りにくらべて少し広いのは、かつて市電が走っていたため。河原町五条の東南に、五条と河原町を斜めにつなぐ道があるが、あれも古い電車道。千本中立売から北野へ抜ける道、木屋町二条や寺町二条の道が弧を描いてカーブするのも、電車が走る姿を想像できて、いいものだ。
 さらに。市電の線路の敷石は、いま哲学の道の石畳になっているのをご存知だろうか。市電を支えた自然石が、意外なところにリサイクルされて、どっこい、いまも生きている。

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