烏丸通と新烏丸通、
おなじ中京区なのに、なぜ?
新烏丸、新椹木町。さらに鴨東二条から三条に、
御所周辺を大移動したまちがある。
以前は、新椹木町通に仕事場があった。京都サッカー協会のあるビルで、窓からは革堂さん(行願寺)の屋根を眺め、新椹木町通の一筋西には、新烏丸通の名があった。通り名を伝えても、知っている人は皆無に近かったが、河原町通と寺町の間に、なぜか「新」と名のつく二本の通りがある。
「新椹木町通」というのは、電話で住所を伝えるとき、苦労したのを思い出す。そもそも通り名で「新」がつくのはめずらしいから、「シン」は「新しい」と伝えるのだが、次の「椹」でまたひっかかる。「甚だしい」です、木へんに甚兵衛さんの「ジン」です、総領の甚六の「ジン」です、なんていうほどにますますややこしいことになるときは、「サワラはひらがなで結構です」という奥の手を使ったりした(京都の住所は漢字を口頭で伝えづらい場合が多い。いまも夷川の「夷」でひと苦労)。
ところで、「新」がつく前の、本来の「椹木町通」は、御所の西側に東西の通りとして存在する。ちょうど丸太町の一筋北側。でも烏丸通と新烏丸通は、ともに南北の通りだが、などと思っていると、「新」のつく通りはもっと大きなスケールで、鴨川の向こう側にあることがわかった。
川端通から東大路までの二条─三条間、とくに仁王門通沿いを歩いてみよう。それぞれ短い通りだが、北へ向かう道が西から順に「新車屋町通」「新東洞院通」「新間之町通」「西寺町通」、同じく南へ向かう道は「新丸太町通」「新麩屋町通」「新富小路通」「新柳馬場通」「新堺町通」「新高倉通」と、それこそ現在ある御所南の通り名が、ごっそり大移動したかの感がある。これはいったい…。
理由は、江戸時代の「宝永の大火」(一七〇八)にあった。平安建都以来、京都は幾たびもの火災、天災、戦乱をくぐってきたが、宝永の大火は御所や公家屋敷をひとなめにし、京の四分の一を焼いた大火のひとつだった。
油小路通姉小路下ルから出火し、南西の春風をうけて御所方面を炎に包むと、次は寺町を南へ、さらに下鴨、黒谷、岡崎、吉田と、都の中心をことごとく焼き尽くした。
この被災復興にあたって、幕府は御所一帯の大改造計画を打ち出したのだ。すなわち、南は丸太町通、西は烏丸通(現在は御所に含まれている部分)までの二十七もの町々を立ち退かせ、その跡地を利用して御所と公家屋敷を再建復興するとともに拡大整備を行う。これを機に、公家屋敷の建ち並ぶ御所は整備が進み、より大きな規模に生まれ変わった。
このとき被災地を御所にさしあげた人々が新しく移り住んだのが、「新」と名づけられた通りである。新烏丸通は、烏丸通丸太町上ル東側の住人たち、新椹木町通は、椹木町通烏丸以東の住人たち、という具合。そして現在は御所の南に通り名が残る、その丸太町以北に住んでいた人々が、鴨東(一部は平安京内裏跡の内野ほか)へ移った。その新しい復興地に、生まれたときから慣れ親しみ、また誇りでもあった洛中の通り名を「新○○通」として移したのであった。
「新」と名がつく通りとはいえ、その歴史はかれこれ三百年。「前の戦争」といえば太平洋戦争ではなく応仁の乱だったりする、京都特有の時間がここにも流れている。
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